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1999年10月22日

自分の名前


 少し前のことですが、研究室配属後初めて研究室に行ったときのことです。当然の成り行きとして、自己紹介をしなくてはならないのですが、直接指導してもらう助手の人に自分の名前を言ったときのことです。なぜかうちの研究室には韓国からの人が多く、その助手の人も韓国から来た人でした。で、そのひとの妙なアクセントの日本語に苦労しながらも、自分の名前の漢字を説明したとき、「で、この名前の意味は?」といわれました。
 「!」
 いままで、そんなことは考えたこともなかったので、応えることは出来ませんでした。さすがは漢字を作った大陸人。漢字に対しては真剣です。>何か違う?
 私の名前は、昔にちらっと親に聞いたところでは、単に母親から一文字と、父親の好きな漢字一つを組み合わせただけだそうです。そんな、人に説明できるような意味なんてあるんでしょうか? 確かに漢字一文字一文字には相応の意味があります。だから、その漢字を組み合わせた名前にはそれなりの意味があるのかもしれません。それを調べてみるのもおもしろいかもしれないです。 でも、自分の名前の由来をしっかり理解している人って、どれくらい居るんだろう?
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1999年10月23日

とうなん……と、盗難!?


 今日も今日とて秋保の山奥で車の整理をしていたわけですが、その御仕事が終わって、さあ帰ろうかというちょうどそのとき、滅多にならない(^^; 携帯がなりました。私が出ると、その電話の主の発言は、なぜかひどく歯切れが悪い。用件をせかしたところ、「車を盗まれたから、ひとつき程貸して欲しい」とのこと。
 …………!!
 「盗難?! はぁ?」
 まさに我が耳を疑うとはこのことでしょう。電話の主は仕事に車を使っている人間。確かに車がないと不便でしょう。しかし、何だって盗まれたなんて。さしずめロックのし忘れでもしたんでしょうが、車って簡単に盗まれるようなものなんでしょうかね? たしかに、自分もちょこっと止める程度であれば、いちいちロックをしないこともあります。それだって、私の車をわざわざ盗むような物好きが居るとは思えないと思っているからです。でも、今駐車場での車両整理なんてやってるせいもありますが、確かにこのあいだ車のドアにキー束をぶら下げっぱなしだった人もいましたし。人間、いつでも、うっかりっていうのはあるもののようで。まあ、一度盗まれてしまったものは、出てくる可能性は低いでしょう。よしんば出てきても再び乗る気には……あまりなれませんしね。実際、盗まれた本人も、帰ってきても買い換えるとは言ってますけど。しかし、ローンも払い終えてないのに、ご愁傷様。今度何か励みになるようなもの送ってあげましょう。自分も気をつけねばならんようですが、貸したら当分帰ってこないし。雪が降らないことを祈るばかりです。
 戸締まりはちゃんと確認しましょうね。
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1999年10月25日

お疲れお疲れ


 今日の午後は実験のはずだったのですが、なんだか突然の延期。午後はまるまるあいてしまいました。
 というわけで、今日は久しぶりに泳ぎに行きました。結局、週一回行けるか行けないかという感じになってますね。本当は、もう少し頻繁に行きたいところですが、予想外に配属された研究室が多忙で、つらい状況だったりします。 体調がよかったのか、気持ちよく泳げました。今度はいつ行けることやら……。しかし、張り切って泳いでしまったために、その後のバイトがかなりつらかったです。今ももう眠くて眠くて。そう言うわけで、身のない文章で失礼します。
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1999年10月26日

ものの見方、考え方


 人間誰しも、影響を受けた人間というものが一人は居ると思う。
 私の場合、何人か居るのだけれども、最も多く影響を受けたのは「林原めぐみ」さんだろうと思う。まあ、知らない人はまるっきり知らない人ではあるかもしれない。声優さんである。
 私は、気がついたらこの人のラジオ放送を毎週欠かさず聞くようになっていた。中学生の頃からである。今は引っ越したとか、ネットやってるとかで何となく遠ざかっているが、気づいたときには聞いている。
 この人、非常にしっかりしているというか、自分をちゃんと持っているのだ。この「自分を持つ」というのがなかなか出来ない人が多いと思う。これがある人と、ない人では「輝き」が違うのだ(臭い言い方だけれども)。私自身、「自分を持って」いるとは考えていない。ただそれなりに少しくらいの幹くらいは持っていると思っている。その辺が、人から見ると年の割に老けて見えるらしいが(笑) めぐみさんの話(それだけでなく、色んな人の影響もあるが)を、自分なりに吸収して得たことは、基本的なものの見方だと思っている。誰でも物事を考えるときは、まず自分を優先して考えることが多いと思う。人間て基本的にそう言うものだと思うから。でも、ここで一歩引いて周りを見ることをやってみるといい。そうすると状況がはっきりと見える。得てして自分本位に考えている人間というものは、視野が非常に狭く、他人に迷惑を掛けることが多いからだ。それに、今まで見えなかったものが見えてくることも多い。
 しかし、この「一歩引く」というのがわからないらしい。ちょっと落ち着いて、右見て左見てもう一度右を見て、というあれをやるだけのことなのだけど。何事もこれが最も大切だと、私は考えている。ただ、やりすぎると「冷めている」ということになってしまう。その実例がここに約一名……(笑) めぐみさんは、この「視点の変えた見方」というものを私に教えてくれたと勝手に尊敬している。今ではあまりラジオも聴かなくなってしまったが、相変わらずの活躍でうれしい限りである。
 何でこんな事を書いたかというと、今日、めぐみさんの新しいアルバムを聴きながら、エッセイ集を読んでいたせいである。
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1999年10月29日

日本の英語教育


 ちょっと堅いお話。
 新聞の投書欄に、「中学校の英語教育は基礎力をつける土台の教育」というようなものがあった。中学教諭の方の投書である。
 日本の英語教育は「使えない」とよく言われる。私も実際そう思っている。しかし、この「使えない」というのが曲者で、どこまでできれば「使える」といえるのかが問題になってしまうのだ。英語というか、言語というのはコミュニケーションの道具である。だから、私は日常会話ができてはじめて「使える」域に入ったと考える。
 この投書の教諭の方は、「使える」例が海外旅行での買い物が可能か? 程度の判断だった。これには首を傾げてしまう。ちょっとした海外旅行でのやり取りなど、身振り手振りで何とでもなる。これくらいができたからといって、「使える」というのはかなり甘いのではないだろうか? 言語とはコミュニケーションの手段である。私個人の意見としては、あくまでも言語、道具であり、学問ではないのだ。今の日本の外国語教育は学問だと、私には思えて仕方がない。「使える」英語を学ぶのであれば、まずはコミュニケーションから入るべきではないだろうか。
 いま、英語教育の小学校への前倒しもちらほらとささやかれるようになった。しかし、ここで文法の説明からはじめても何にもならないだろう。そんなことより、同年代の英語圏の子供とひたすら遊ばせたほうが、よっぽど早く英語を身につけるのではないかと思う。言語なんて、学ぶものではなくて、身で覚えるものではないだろうか? 自分が日本語を使えるようになったことを考えれば、同じようにするのが自然だと思う。日本語を生まれたときから聞いて育った人は、日本語の文法を習って日本語を話せるようになったわけではないだろう。それと同じことだと思う。
 言語はコミュニケーションの道具であって、学問とは違う。その辺の認識をしっかりと持ってもらわなければ、次の世紀、日本は世界から取り残されてしまうかも?>ちょっとおおげさ
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