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1999年10月29日

日本の英語教育


 ちょっと堅いお話。
 新聞の投書欄に、「中学校の英語教育は基礎力をつける土台の教育」というようなものがあった。中学教諭の方の投書である。
 日本の英語教育は「使えない」とよく言われる。私も実際そう思っている。しかし、この「使えない」というのが曲者で、どこまでできれば「使える」といえるのかが問題になってしまうのだ。英語というか、言語というのはコミュニケーションの道具である。だから、私は日常会話ができてはじめて「使える」域に入ったと考える。
 この投書の教諭の方は、「使える」例が海外旅行での買い物が可能か? 程度の判断だった。これには首を傾げてしまう。ちょっとした海外旅行でのやり取りなど、身振り手振りで何とでもなる。これくらいができたからといって、「使える」というのはかなり甘いのではないだろうか? 言語とはコミュニケーションの手段である。私個人の意見としては、あくまでも言語、道具であり、学問ではないのだ。今の日本の外国語教育は学問だと、私には思えて仕方がない。「使える」英語を学ぶのであれば、まずはコミュニケーションから入るべきではないだろうか。
 いま、英語教育の小学校への前倒しもちらほらとささやかれるようになった。しかし、ここで文法の説明からはじめても何にもならないだろう。そんなことより、同年代の英語圏の子供とひたすら遊ばせたほうが、よっぽど早く英語を身につけるのではないかと思う。言語なんて、学ぶものではなくて、身で覚えるものではないだろうか? 自分が日本語を使えるようになったことを考えれば、同じようにするのが自然だと思う。日本語を生まれたときから聞いて育った人は、日本語の文法を習って日本語を話せるようになったわけではないだろう。それと同じことだと思う。
 言語はコミュニケーションの道具であって、学問とは違う。その辺の認識をしっかりと持ってもらわなければ、次の世紀、日本は世界から取り残されてしまうかも?>ちょっとおおげさ
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